1986年夏 その2

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予算はマックスで20万円、期間はお盆休みに有休を目いっぱい加えて十日間。旅行情報誌の中で僕らが見つけたのはソ連旅行ツアーだった。確か15万円ほどだったと思う。円高が進んでいたとは言えこの金額は割安だった。それにはからくりがあって、まず旅は飛行機では無く船で行くのである。新潟から船に乗ってナホトカへ、それからシベリア鉄道でハバロフスクへ。ハバロフスクからはモスクワや当時まだレニングラードと呼ばれていた今のサンクトペテルブルクなどにグループごとアエロフロートの国内線で散っていくのだ。

太田裕美のさらばシベリア鉄道がヒットしたのは1980年、僕が大学1年の時だった。もっと昔に五木寛之が書いた「青年は荒野を目指す」は読んだことが無かったけれど、フォーククルセダーズの歌は何となく知っていた。北国の港町から知らない国に向かっての旅立ち、シベリアの荒野をどこまでも走り続ける列車。今まで海外旅行などしたことの無かった自分の頭の中にいきなりいろいろなイメージが飛び込んできた。さてハバロフスクからはどこへ行こうか。目に付いたのはシルクロードという単語だった。シベリア鉄道に加えてシルクロード、ソ連とシルクロードというのは結び付かない気もするが、ウズペキスタンやカザフスタンは当時まだソ連の一部で、中国からウイグルを超えた先は確かにシルクロードの一部だ。僕の頭の中のイメージにさらに幾多郎が加わった。

一緒に海外旅行をしようといいだした相方は関西の出身で家はまあまあの金持ちだったらしく、学生時代からヨーロッパなどに海外旅行をしていたらしい。彼の当初の目論見は西海岸か南のリゾート地にでも行っておしゃれに楽しみたいということだったらしい。僕のソ連、シベリア、シルクロードというロマンはあるもののハードな提案にかなり面食らっていた。でももう僕の頭の中は太田裕美と五木寛之と幾多郎に支配されていた。

 

 

1986年夏 その1

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 初めて海外に行った年は1986年だった。この年の4月ソ連のチェルノブイリで原発事故があった。その年の8月初めて行った外国はあろうことかそのソ連だった。今の様な情報過多の社会だったら行かなかったかも知れない。その当時のソ連はまだペレストロイカも始まったばかりで、それから数年後国ごと無くなってしまうなどとは考えられなかった。

 チェルノブイリ事故よりもペレストロイカよりも、僕の初めての海外旅行に影響したのはその前年1985年にニューヨークで開催されたプラザ合意だった。レーガン政権の元、大きな財政赤字に陥っていたアメリカの財政危機を回避するために、先進国がニューヨークのプラザホテルに集まってその後のドル安政策を取ることに合意した。結果日本円の対ドルレートは大幅に円高に振れた。1985年から1年間の間で1ドルは260円ほどからほぼ倍の130円前後になった。

 当時、京都の大学を卒業して東京の会社に勤め始めて3年目の僕の夏のボーナスは手取り20万円を切る位だったと思う。少ないなぁとは思いながら、それでも気楽な独身者の僕は何に使おうかと考えていた。そんなある日一人の会社の同期が為替レートの変動のニュースを聞いて「このボーナスを海外旅行に使えば1年前に比べて2倍楽しめるという事になる」と僕に海外旅行を持ちかけてきた。それから二人で当時あった分厚い旅行情報誌をめくって、どの海外旅行がより得かの検討が始まった。